2015 年、東山彰良さんの小説『流』が日本大衆文学賞の最高峰、直木賞を受賞しました。同作品はミステリー小説の手法と1970 年代の台湾を融合させ、かつ青春小説の息づかいを感じさせる内容となっています。台湾の読者にとっては、作中にかつての台北、さらには在りし日の自分自身を見出すことができ、純粋な読書の楽しみ以上の喜びを味わえる作品です。
天からの贈り物
テンポよく進むストーリー、隙のないストーリーの組み立て、絡み合うミステリー、ファンタジーとリアリティ、激動の時代につきまとう鬱屈した雰囲気を描き出した『流』は、日本で「20年に一度の傑作」との高い評価も受けています。向こう見ずな高校生が何者かによる祖父の惨殺を目の当たりにし、事件の真相を探ろうと決意すると同時に、奔放に成長していく過程が描かれるほか、閉鎖的な政治体制に関する記述は、台湾において近年、盛んに議論されている「転型正義(移行期の正義、民主主義体制へ移行する際に、過去に行われた人権侵害、不正義に対する清算、名誉回復、補償等を実現すること)」にも共鳴しています。
台湾の作家、小野(シャオイエ)さんは『流』を「天からの贈り物」と評しました。これは同作品が扱ったテーマが台湾文学界では長い間、扱われてこなかったことを示すと同時に、今登場したということは時代がそれを求めていることを意味するのです。
ファンタジーであり
ノスタルジー
『流』が台湾の読者の心を打つもう一つの重要な要素は、古き良き時代の思い出を心の奥底から刺激するという側面です。作中では自由のない政治体制下の重々しい雰囲気が描かれる一方で、それ以上に細々とした生活の様子が丁寧に書き込まれており、読者は当時嗅いだ廈門街の排水溝の匂いや、中華商場の喧騒が本の中から立ち上ってくるように感じます。そのわけは、こういった場面は東山さんが子供時代を過ごした台北で、実際に経験した素晴らしい思い出が基になっているからです。
中国の山東省を祖籍(宗族発祥の地)とし、台北で生まれ、日本に住む東山さんは、小学生時代を過ごした台北での生活の中で経験したエピソードを創作の「栄養」としています。その時代について彼は「廈門街で暮らした子供のころ、台湾社会はまだ動乱の中にありましたが、僕にとっては祖父母や両親から愛情を注がれたすばらしい時代として記憶されています」と語ります。白先勇の『台北人』など、台湾の文学作品の中には台北の日常を描いた小説は少なくありません。しかし、『流』にはよりストレートな雰囲気が感じられます。登場人物がさまざまな無念や欲望のために心をすり減らすこともなく、国家や民族、文化への言及も少ない上、現代文学にありがちな疎外感とも無縁です。彼らを突き動かすのはもっと直接的な、生きるか死ぬかの問題で、主人公のケンカや心の傷はすべて青春の咆哮であり、心情の吐露なのです。なお、本作品の主人公は東山さんの父親がモデルとなっており、一族の物語を通じて時代に翻弄される台北の人々の生き生きとした姿が描き出されています。
さらに興味深いのは、作中に登場する「こっくりさん」や「大量発生するゴキブリ」といった現実離れした場面も、台湾の読者にとっては身近な大衆文化の一部であり、親近感を増幅させる効果を持つということです。これについて東山さんは「日本の読者にとっては別世界の話で、彼らはファンタジーの描写だとみなします」と指摘します。『流』の中に登場する数多くの荒唐無稽なエピソードは、すべて東山さんの記憶にある実際の出来事が下地となっているのですが、日本の読者にとっては異国情緒をかきたてられ、摩訶不思議な台湾の魅力を強く感じさせる場面となっています。
「ただの青春小説」
『流』という小説は歴史、政治、文学的観点から様々なことを連想させる作品ですが、東山さんは「これはただの青春小説に過ぎません。舞台を70 年代の台北に設定したため、読者に現実味を感じてもらおうと歴史や政治の要素を盛り込んでみました」と強調します。ここで言う青春小説とは、著者の主観や意志をまとった小説を意味します。また『流』の一種、諧謔的でユーモアを帯びた語り口は、著者が抱く「読者に価値観を押し付けたくない」という信念を反映したものと言えます。東山さんはまた、「権威主義の時代を描き出そうとする場合、ユーモアを含んだ語り口はとても自然なものです」とも語っています。
青春小説には一人の人生の遍歴に焦点を当てるという側面もありますが、そういった作品の出来は著者の「感情移入力」によって左右されます。東山さんは、「僕は米国や中南米の小説が好きです。著者と僕との間には大きな隔たりがあるにもかかわらず、作品を自分の物語として読むことができるのです」と言います。自分の父親のことを書く時も、彼は主観的な視点を起点とします。作品のストーリーテラーである父親の目を通して読者は他の登場人物の苦しみを見、そして父親という人物を理解するようになるのです。
このような感情移入の能力によって、東山さんは遥か彼方の都市や見知らぬ人物の体験を作品に描くことができます。彼は感情描写が苦手と謙遜しますが、実際に書かれた文章はとても生き生きとしています。作中に描かれた人物が誰かのことを忘れられず、しかしある時、「前へ進もう」と決意する。それは誰もが経験する人との巡り合いのようにも、歴史のメタファーのようにも捉えられます。
台北が僕の原風景
日本人が台北に対して持つ印象を聞かれた東山さんは、「ほとんどの日本人は台北の人を親切で明るく、礼儀正しいと感じます。例えば子供を抱いた人を見かけると、みんな当たり前のように席を譲りますよね」と答えます。一方で東山さん個人の台北に対する印象はと聞かれると、彼は「幸せのイメージです」と答えます。「人生でいちばん楽しい時期でした。あの頃の台北はあまり整然とはしていませんでしたが、子供の僕に、ある種『原風景』のようなものとして刻まれました」と語ります。その印象はまた、台北で育った人間に共通する幸せな記憶と言えるでしょう。
東山さんは、祖父が自分を連れてよく台北植物園に行き、体操をしていたことが強く記憶に残っていると言います。「体操というのは年長者が早朝にやるようなものですが、その時、祖父が体の動かし方を僕に説明するために語った言葉の多くは、その後の人生にかなり役立ちました」─そう語る彼の脳裏には、植物園のダイオウヤシ、池に咲く赤い蓮の花、園内を行き交う人の影といった光景が台北の夏のイメージとして浮かんでいます。
ほかにも赤レンガの建物が並ぶ剥皮寮、線香の煙が立ち込める龍山寺、そして華西街夜市などが東山さんの記憶に残っています。華西街に飛び交う物売りの声を聞き、客や露店がにぎわう様子を目にすると、心の中の思い出がよみがえり、「昔とまったく変わらないなあ」と感じるそうです。
黄金に輝く台北の記憶
流暢に中国語を話す東山さんは、たびたび台北に戻っているそうですが、「現在の台北で最も関心を持っていること」という話題に話が及ぶと、「日本にいて中国語が聞きたくなると台湾へやって来るのですが、その際、中国語曲のアルバムを買うことがあります。例えば乱弾阿翔や董事長楽団、それに1976 も(いずれも台湾のロックバンド)」。中国語の歌を聞くと、その歌詞の一部は日本語に置き換えることができなかったり、無理に翻訳すると違う意味になってしまったりすることに気づきます。そのことが興味深く、執筆にもとても役立っています」と話してくれました。また「一番好きな台湾の食べ物は?」との質問には「焼餅(シャオピン)と油條(ヨウティアオ)が好物ですが、最近では熱炒(居酒屋料理)もよく食べます。台湾ビールと一緒にね」と答えました。まさに地元の食べ方です。確かにこれが嫌いな人なんていませんよね。
ある都市に対して抱く印象は人によって様々ですが、東山さんにとって台北は「太陽のような色」をしています。それはかつて暮らした頃の美しい思い出が、子供の頃の記憶を黄金のように輝かせるからなのです。